留書

8月中は2週間ちょっと…ほぼ3週間、何も描かないことをしていました。
日課の30秒ドローイングだけを続けていました。
9月になっちゃったよ。


「木漏れ日のトンネル」
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はてなハイクで描いていたときにも(たぶん)2回ほど使ったことのある描き方です。

陰影も含めて固有の色で全体を描いた後、木陰に入っている部分に「半透明ペン」で陰の色を乗せ、木漏れ日の当たる部分に再び固有の色を置いています。
あらかじめ陰の部分、日向の部分を分けた色を作って塗り分けるよりも全体を把握しやすいことと、「日差しの強さ」を強調できるような気がするので好きな描き方だったりします。


陰を塗る前はこんな感じ。
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半透明ペンは塗る回数を重ねると濃淡の差ができるので、塗り始めたらペンを離さず一気に塗ってしまわないといけないのです。
ペンを握る手がガチガチになることと、固有の色を再び置く手間が面倒ですが、塗り始めたときの「あれ~これ、色選び失敗したかも」という印象から塗り終わったときの印象が変わったりするのも面白いです。
後から陰を置く塗り方は、透明水彩などでもたぶん使える方法です。

単調な色を一様に塗り重ねるやり方なので当然、下の色の差が潰れてしまうことを考え、くっきりとした色で塗り分けておくといいかもしれません。


ちなみに試しに陰を明る目にすると
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背景は色は変えていないのにちょっと印象が変わる気がします。
木の下でも周囲に光が拡散していたり、下や手前から反射する光の量が多く木の枝葉が密でない印象でしょうか?
こんな感じで直接描かない、描かれていない部分のイメージを操作(というと言葉の印象が良くないか?)することも出来ちゃったり…出来てるの?


いつものように下描き
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春の「ピンクのトンネル」に麦わら帽子を書き足して、花びらを消しただけのものです。右肩を少し直してあります。




ここからは自分のための留書。

突然の例え話。


360度見渡せる場所があったとして。
荒野でも、草原でも、森の中でも、山頂でも、大海の孤島でも、屋内でもよくて。

「目に見えている範囲」、視界。これが自分の知識や経験の範囲。自分自身。
知識や経験が増えるということは、この「目に見えている範囲」が外へほんのちょっとだけ広がることだったり、「目に見えている範囲」のどこかで植物の芽がでたり、花が咲いたり、木陰が出来たり、岩が現れたり景色が変化すること。
知識や経験が豊富、場数を踏んでいる、場馴れしているということは、単純に「目に見えている範囲」が広いということでなくて、「目に見えている範囲」のどこに何があるのか知っていたり、景色が変化するものであることを知っていること、受け入れていることかなと思いはじめています。

「目に見えている範囲」の中で今立っている場所から見渡して、モノの形や色がはっきりと認識できる範囲。
これが自分が「何かを想像できる範囲」。

「何かを想像できる範囲」の中で腕を前や横に突き出してクルッと回転した範囲、あるいは「何かを想像できる範囲」の一番遠い縁まで腕を伸ばそうとして伸ばせる範囲、「何かを想像できる範囲」の一番遠い縁まで手が届くように足を踏み出せる範囲。
これが自分の「技術の範囲」。

自分の「技術の範囲」は自分が「何かを想像できる範囲」を越えることはなくて、自分が「何かを想像できる範囲」は自分の「目に見えている範囲(知識や経験)」の外にはみ出すことは出来ないと思っています。


絵を描くこと、文章を書くこと、音を作ること奏でること、言葉を発すること、動作をすること。
「表現」と呼ばれるものは全部、自分自身の中にあるもの、思想に基づくものでも感情に基づくものでも全部、自分自身の中にあるもの。
一見、外の出来事に起因するように思えるものでも、自分の「目に見えている範囲(知識や経験)」の中のどこかへ自分自身の足を向けて、過去の出来事や誰かに自分自身を重ねて、外の出来事に対して自分自身が腕を伸ばしている。いったん、「目に見えている範囲(知識や経験)」の景色を変えたうえでの過程かもしれない。
賛同すること、忌避すること、恐怖すること、同調することも含めて全部、自分自身の中にあるもの。
その基となるものは全部、自分の「目に見えている範囲(知識や経験)」の中にあるもの。
「何かを想像できる範囲」は選択肢や可能性、「技術の範囲」は選択肢や可能性の中から適したもの着実に選ぶ能力。

失敗を経ての自己嫌悪や後悔は、自分の「技術の範囲」の狭さの認知だろうし、「何かを想像できる範囲」の縁が「技術の範囲」の縁のよりも広くあることの認知だろうと思っています。
ちょっと書きたいことと違う話になってきてしまったような気がしてる…。



他の方の描いた絵を見るときに「何が描いてあるのか」「自分ならどう描けるだろうか、描くだろうか」ということをします。
自信を持って「こう描ける」ではなく。
「何が描いてあるのか」を自分の「目に見えている範囲(知識や経験)」の中の似通った場所、誰かに重ねる、置き換えるそこに立つ、「何かを想像できる範囲」を確認してできるだけ腕を伸ばしてみることをします。
「そら」で描けるものがないので、こういうことをよくします。


7月の後半から8月の頭にかけて何枚か描いてみたものがありました。
それを見返したときに「もっとこうなのにな」「もっとこんな感じにしたいのにな」と、いつものように技術のなさに凹みました。とても凹みました。
自分が楽しむということ以外の目的を持って描いたものなのでとても凹みました。
上の例え話でいえば、「技術の範囲」の縁と「何かを想像できる範囲」の縁までの距離の遠さに凹みました。


そんなことを経たうえで、他の方の描いた絵を見たときに「ここはこう描きたいのだろうな」「もっとこうなんだろうな」と2日間くらいそんな見方をしていました。そんな見方をしていることに気付きました。
技術のなさに凹んだばかりの人間がそんな見方をするのはおかしな話だなと思いました。
そんなことに気付いたら、思ったら「こんなふうに描きたい」というものが何も思い浮かばなくなりました。


文字だけで書き表せば、「自分ならどう描けるだろうか、描くだろうか」ということの違いはないのかもしれません。後者はアプローチの仕方というと大仰かもしれませんが、まったく違うものとして自分の中では捉えています。

「何が描いてあるのか」「自分ならどう描けるだろうか、描くだろうか」ということは自分の中で立っている場所を変えること。自分の中を歩き回ること。
「ここはこう描きたいのだろうな」「もっとこうなんだろうな」というのは立ち位置を変えずに腕を伸ばせる範囲で外のできごとを見ること、あるいは自分の中に取り込んだとしても別の場所からその方向を眺めているだけ。
「自分が」こういうことをしていることは、どこかに傲慢さ、慢心がある気がしてなりませんでした。


8月はそんな気持ちのまま、ずっと負け続けていました。


もっといろんな景色を。
腕を伸ばすやわらかさを。
足を踏み出し続ける脚力を。

こんな気持ちを忘れないための留書。



秋の絵は10月までに描きたいな。
9月は積み残していることに手をつけよう。
9月分としてもう一回、更新できるといいのだけれど。

では、では。