感覚

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とても気持ちの良い感覚を味わうことができました。


いつもは「あんなことができない、こんなことができない」と、受け取り方によってはどちらかというとポジティブでないPainなことを多く書いていますが、今回は「こんな感覚を味わえたよ」というGainなお話。
(「ポジティブでない」ことでもその時々の目標や方向を確認するために書いているようなところがあるので、書いている当人にとっては「その先にあるのはポジティブ」なことだったりします。)


4月の更新で「軸」という言葉を使って色塗りの苦手意識、イメージがブレることを書いたので、今回はとにかく「軸」を保つことだけを意識して練習してみました。


「軸」を保つ、そのために心がけたこと…え~、ここ。
自分の中にあるニュアンスを正確に伝える言葉が見つけられないのですが、「定型の作為」を消すこと、引っ張ってこないことを心がけました。
例えば、「こうすると○○っぽくなる」であるとか、「こうすると上手に見える」とか技術の足りない部分を補うためのパターン化された作為。

「こうするとどうしてこうなるのか」ということを理解しないままパターン化された作為をもってくれば、自身のイメージする作為と衝突する。
技術がないことはわかっているので、パターン化された作為を優先すれば、自身のイメージする全体の作為とつじつまが合わない。
つじつまが合わなければ、その作為(の本質)よりもパターン化された作為の「存在」だけしか、「ここをどうにかしようとした」ことしか残らない。
見る人にとってはそこの部分だけが目立ってしまって、そこに何を見せたかったのか、そこを何かすることで全体の何が見せたかったのか、見せられたのかわかない。

色を塗り進めていくうちに感じる自分の中のモヤモヤとか、軸のブレる原因はこういうことかもしれない。そんな風に考えたのでした。
(これは「作為をもたない」ということとはまったく逆のことですし、パターン化することを拒否したり否定したりすることではないので、この点はこの拙い文章ですが汲み取っていただければと思います。)


とにかく自分の中のイメージをしっかりと保って、感覚だけを頼りに「必然」を目指そうとはじめてみたのでした。

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下描き
今回は、あまり整えずに。作業中はイメージを保つため、そのことを忘れないためにずっと脇に表示してました。


ここからがやっと本題。

進めていくうちに、とてもとても気持ちの良い感覚を味わえたのでした。
前回の更新のときにはもう経験してました。

この絵の要の部分(手の甲と手首の境の小さな丘)が自分の中で定まって。
この丘をきれいに見せる、このまま保てば、感情とか力の入れ具合とかシチュエーションはイメージどおりにできるという確信のようなものができて。
その後はとにかく気持ちが良かったです。
「ああ、見える見える」「ああ、こうだこうだ」と手が動く。
見えるとか動くとか気持ちが良いという、絵とは別なことを考えていても手が動く。
それまでは「何か間違っている」と思っても「何が正解なのか」がわからなかったり、手直ししても数分経つとそこがやはり間違って見える繰り返しだったのですが、そのときは「間違っていること」と「こうでなければならいこと」がすぐに結びつく感覚。
そんな気持ちの良い感覚。色塗りでは今までにない感覚でした。
(関係あるのかないのかわかりませんが、この感覚を経験した後、集中力が続かない。パーツ1カ所とか、同系の色の範囲の下塗りするだけもう疲れちゃう。1時間くらいしかもたない。5月中はお絵描きにあてられる時間の確保が少なかったのと重なってこれに1ヶ月くらいかかりきりでした。)


で、この感覚を経験した後で、以前経験したことのある、正体不明だった別の感覚の経験が同じようなことなのかもしれないとつながっていきます。

Posemaniacsの「30秒ドローイング」をはじめて半年ちょっと経ったときに一度だけ(正確には2日間に)感じた不思議な感覚がありました。
そのときは「気持ち良さ」ではなく、今までにない「不思議な感覚」でしたが、「見える」とか「動く」とか「なんだろう、これ」、「なんだろう、これ」って同じように言葉を考えていても手が動く感覚でした。
選挙があった日で、投票所への行きかえりに「なんだったんだろう」ってずっと考えていたことも印象に残っていて。
今もまだまだだけど、今と比較してもとてもひどい…恥ずかしい、これ、2010年7月11日

30秒ドローイングに関しては「あのときの不思議な感覚をもう一度味わいたい」という思いで、その後もずっと続けているのですが残念ながら同じ感覚は味わえていません。
しばらく続けた後で同じ感覚が味わえないので、ちょっと思ったのですね。あれは「パターンを覚えた」「慣れた」ということだったのかもしれないと。
でもそれは違っていて、30秒ドローイングに新しいポーズが加わる。
はじめて見る、描くポーズだけれど、なんとなく描ける。
子供のポーズが加わる。なんとなく描ける。
マッチョな人のポーズが加わる。なんとなく描ける。

「パターンを覚えた」ということであれば初見のものにはとまどいを覚えるはずだし、「慣れた」ということであれば加わったポーズに対してまた半年後くらいに同じ「不思議な感覚」があっていいはず。
でも「不思議な感覚」は味わえない。


結局、その感覚の正体はわからないまま今に至っているのですが、今回の色塗りでの感覚を味わえたことでつながって、そして玉突きのようにもっと昔に感じたことのある感覚を思い出して、それと同じ種類の感覚なのかもしれないと思うのです。
「たぶん、それぞれ一度しか味わえない感覚なのかもしれない」。


まだ学生さんの頃、「存在しない線は描かない」という言葉の意味するところをはじめて知った(経験できた)ときの感覚。
その後、ちょっと下って、限られた数の階調でものを描いた(そのときは貼り絵)ときの感覚。
大げさかもしれないけれど、それまでとモノの見え方が大きく変わった感覚がありました。
「あ、ホントだ。そう見えるわ。」という感覚を感じたことを覚えています。
同じ種類の作業に関してはもう見え方が変わってしまっているので、大きく変わるという感覚は味わえていないのですね。


30秒ドローイングの感覚と今回の色塗りの感覚が、何に対しての何の感覚を得られたものなのか自分の中で正確に整理することはできていませんが、たぶんこれらは何かの引出しができた瞬間の感覚なのかなと思うのですね。
「パターンを覚えた」「慣れた」との違いもうまく説明できないのだけれど…。
引出しを作る。引出しにものを入れる。適宜、引出しから取り出す。全部がガッチリ噛み合う感覚。
作る引出しが大きすぎたり小さすぎたり、入れるものが大きすぎたり小さすぎたり、違うものを引き出してしまったり入れてしまったりを繰り返しているのが、普段、知識を集めたり、練習したりすること。


そんなことを考えていて、上を見ればきりがないのだけれど…、ステキな絵を描く人たちもこんな感覚をもっとたくさん、その時々で感じて積み重ねているのだろうなあと思うと、「その感覚はどんなものだろう」と興味が、味わいたい欲求があって。
それが今の「もう少しだけ」というモチベーションになっています。



そんなこんなで6月。
もうすぐ梅雨なので梅雨の絵を描こう。
水のトンネルだと「はじまりはいつも雨」そのままなので…「しずくのトンネル」。
モチベーション云々書いた直後でなんだれけど、ゆっくり描こう。
ちょっと疲れた。どう書いたら滑稽じゃないだろう、伝わるだろうって考えたら、この文章を書くだけでかなり疲れたよ…。
でもまだまだ何もまともに描けないし、描けないものばかりだし。
と、いつの間にかいつもの感じの内容に戻っていますが。
コントロールの先にある"偶然"を目指して。


冒頭の絵のタイトルは『…delete?』です。
こうして後で文字情報を添えたとき(添えなくても)に、見た人の中でスッと感じてもらえる、一致することが理想だったりします。
「え~、そうかあ?」だったら大失敗だよ。

では、では。